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フィリピンが独裁に立ち向かった日~エドゥサ革命~

フィリピンが独裁に立ち向かった日~エドゥサ革命~
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2月25日は、1986年に独裁政治に国民が非暴力で立ち向かったフィリピンの大切な記念日です。

2月15日はEDSA revolution Holiday

2月25日はフィリピンの祝日です。この日は1986年におきたエドゥサ革命を記念して作られ、学校も仕事もお休みです。エドゥサ革命とは1986年2月、フィリピンのマルコス独裁政権に対して起こされたフィリピンの民主化を実現させた革命です。ピープルパワー革命とも言われています。

アメリカからの独立後ずっと続いていた独裁からやっと解放された記念日で、この革命が無ければ今のフィリピンはありません。

マルコスの独裁政権

フェルディナンド・マルコスはフィリピンの大統領として1965~86年の20年間、独裁政治を行ってきました。東西冷戦真っただ中の1965年に親米反共産主義のフィリピン大統領として当選し、直後は失業率の削減や貿易の自由化などにより非常に安定した支持率を保っていました。また、米軍基地の提供などでアメリカとの関係を深め、見返りを得て財政を固めていきます。69年には大統領選に再選し、憲法では三選が禁止されていたにもかかわらず戒厳令(軍によってある地域の行政がすべて行われ、国民の権利が制限される命令)を発布して憲法を停止し74年に3選目を果たします。この戒厳令により議会は解散し、言論や出版などの表現の自由といった国民の自由は奪われ、敵政は容赦なく逮捕するなど、まさに独裁政治です。また78年に大統領だけでなく首相にも就任しマルコスはフィリピンの全権を一人で握りました。

マルコス大統領

マルコス政権の長期化によって、政治腐敗がすすみ、国民の生活はますます苦しくなっていきました。しかし、マルコス夫婦は自身の宮殿で豪華な生活を続けていました。悪名高き大統領夫人のイメルダ・マルコスは亡命後に彼女が宮殿に残した3,000足の靴と6,000着のドレスは、国の財産を私物化する光景として、良くも悪くもフィリピンを世界に有名にしました。

イメルダ夫人

また、フィリピン貧困問題の根本的な原因である“腐敗政治”も、マルコスの独裁政権時代の産物です。現在にいたっても、ドゥテルテ大統領が抜本的な解決に踏み入れないほど根深い問題になってしまいました。

独裁政治の終焉へ・・・・。

マルコスの戒厳令によって政敵の中心と言われたベニグノ=アキノJr.は反政府行為の容疑で逮捕され、妻コラソンと共にアメリカへ追放処分となっていました。しかし、国民の困窮状態を解決するのが1番だと考えベニグノは暗殺される危険を承知で帰国しました。

1983年2月22日にマニラ国際空港に到着にした彼は厳重の警備にもかかわらず暗殺されてしまいました。のち、実行犯が逮捕されるも無罪で判決を下されています。マルコスが関係していることは明らかです。独裁政権に唯一戦える存在であった英雄の死は、貧困に苦しむ国民を発憤させ、現体制の打倒を強く訴えるようになりました。そして、妻のコラソンは夫ベニグノの遺志を継ぎ、反マルコスを主張し続けました。

1986年の2月に大統領選の投票が行われました。コラソン=アキノ大統領の当選は明らかでしたが、結果は160万票の差をつけてマルコスの当選と選挙管理局は発表しました。これが、マルコスの選挙不正操作であることは明らかでした。

これに対して、コラソンはマルコスの勝利を否定し自身の勝利を宣言ました。そして、それに賛同した100万人の反マルコス派がマニラの大通りであるエドゥサ(EDSA)に押し寄せマルコス退陣を求めました。さらに25日、自宅であるマラカニアン宮殿で反マルコス派に囲まれたマルコス夫妻はアメリカ軍とともにハワイに亡命、マルコスの独裁は終わりました。そしてコラソン=アキノが新たに大統領として就任しました。この変革は、独裁を終わらせ、非暴力でアジアの民主化を実現した象徴的な出来事となりました。

エドゥサ革命の当時の様子です。

どのようにして過ごすのか

2月25日はピープルパワー革命を称える祝日です。そのため、どのようにしてその祝日を祝うのかとフィリピン人スタッフ聞いたところ、特別な事はしないが皆この日に尊敬の気持ちを持っていると言っていました。フィリピン人にとってとても大切な日であること感じました。フィリピン人の自分の国を誇りに思う愛国心の現れです。

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