世界中が新型コロナウイルスの大きな影響を受けてから3年目となり、セブでも依然として感染症対策が行われる中、徐々に国内外からの観光客が戻って来ました。
今日もセブ島一の賑わいを見せるセブシティですが、8月15日のマルコポーロホテルの一角では、終始厳かな雰囲気に包まれていました。
支配され続けたフィリピン
7,641の美しい島々からなるフィリピン共和国ですが、その歴史においては常に他国による支配と共にありました。
スペインから333年、アメリカから40年もの間植民地支配をされました。
後にアメリカはフィリピンを独立させることを決定していましたが、その状況下で太平洋戦争が勃発します。そして日本軍が首都マニラを占領し、約3年間の日本軍によるフィリピン占領が始まりました。
多くの犠牲を生んだ太平洋戦争
多くの観光客が訪れる自然豊かでのどかなフィリピンが、かつて太平洋戦争での激戦地だったことは知っていますか?
旧日本軍は本土防衛のためフィリピンを重要視しており、アメリカ軍との決戦場になりました。
しかし、太平洋戦争末期にはアメリカとの戦争で日本が劣勢になっていくにつれ、追い詰められた日本軍が市民から食べ物を略奪、虐待をするなど残虐な行動に出るようになりました。さらに、日本軍はアメリカ軍に協力するゲリラの攻撃を恐れ、民間人であっても疑わしい人は皆命を奪われました。
フィリピンでの太平洋戦争では、50万人の日本兵が戦死し、地上戦などに巻き込まれたフィリピンの市民は100万人と言われています。さらにフィリピンは日本兵にとって海外最大の戦没地となっています。
慰霊祭
2022年8月15日、セブ観音慰霊碑前にてセブ日本人会主催セブ観音戦没者慰霊祭が行われました。
過去2年間は新型コロナウイルス感染拡大防止のため関係者のみで行っていましたが、今年は例年通り一般参加も可能になり、在セブ日本国総領事館山地総領事御夫妻をはじめ、多くの日系人会や日本の学生も参加しました。
セブに残る記録
元セブ日本人会会長の石田氏が戦時中のセブ島について参加者に語りました。
かつて日本軍はセブ基地を設置し、軍用の滑走路を造りました。ここからゼロ戦、神風特攻隊が空へと飛び立って行きました。その場所が現在のビジネス街となっているITパークのゲートです。
そして、慰霊祭の会場の上空ではゼロ戦の戦闘があり、ゼロ戦が墜落した場所です。加えて近くに日の丸陣地と呼ばれる日本海軍の拠点がありましたが、米軍の攻撃により多くの日本兵が亡くなりました。
かつてはあたりに六基の卒塔婆が立っていましたが、それらをまとめて永久碑として建立されたのがセブ観音です。
神風特攻 最初の男
セブ島にはあまり知られていない神風特攻についての記録が残っています。
神風特攻隊が誕生し、実戦として飛び立って行ったのはセブが初めてです。
さらに、特攻第一号として敷島隊の関行男大尉が有名ですが、実は久納中尉という人物が関大尉の4日前に出撃し、未帰還となっていることが記録に残っています。このことから彼は「ゼロ号の男」と呼ばれています。
慰霊碑巡り
慰霊祭終了後、セブ市周辺の慰霊碑巡りを行いました。
まずはヴィセンテ・ソット記念医療センター(旧サザンアイランド病院)の敷地内にある、南方十四軍 陸軍病院関係者の慰霊碑に向かいました。
ここはかつて日本軍による野戦病院として使用されており、多くの患者が治療を受けていた場所でした。
病院の駐車場の一角で、石田氏による読経が響き渡ります。
続いて観光地として有名なサンペドロ要塞の近くにある慰霊碑へ向かいました。戦時中、サンペドロ要塞は捕虜収容所として使用されていました。
この碑は他の碑と違い、誰が建立したか記載がされていません。恐らく大西大隊の関係者ではないかと言われています。大西大隊はゲリラの掃討に大きく貢献しましたが、それと同時に多くの市民も巻き込みました。それはフィリピン人の怒りと恨みを増幅させることでもあり、そのことから名前の記載はできなかったのではないでしょうか。
参加者は太平洋戦争で亡くなった全ての人々に祈りを捧げました。
忘れないでほしい
石田氏は「遺族の方々の高齢化が進み、実際にセブへ慰霊に来られる人が少なくなっています。こういった真実を後世にも伝え、平和を維持するために若い人にも知ってもらいたい。戦争を風化させてはいけない。」と語りました。
フィリピンという異国の地で、戦争の歴史を語り継ぎ、セブ観音や慰霊碑の管理を行い、戦没者の慰霊を続ける方々がいることに深く感銘を受けました。
留学や観光の際はセブでの戦争があったことを思い出し、慰霊碑やセブ観音にも是非お立ち寄り下さい。